史跡 徳島藩主蜂須賀家墓所の由来

徳島藩主蜂須賀家の墓所は、徳島市下助任町2丁目の興源寺と佐古山町諏訪山33ほか(万年山)の2カ所に所在する。これは前者が当初行っていた仏式墓から途中の10代藩主により儒式墓にあらためられ後者に移ることとなったため、異なる墓制を併用するという形態となった。しかしこの特異な形態を大名家墓所がもつことなどが評価され、平成14年9月に両墓所は「徳島藩主蜂須賀家墓所」として国の史跡に指定された。

5代綱矩墓から望む墓地風景

1興源寺墓所

興源寺は、もとは徳島城内にあった蜂須賀家の菩提寺江岸山福聚寺を下助任の地に移し、寛永13年(1636)に寺号を大雄山興源寺に改めた時に造営した墓所である。墓所は周囲を築地塀で囲い、北に濠を巡らした四千坪にも及ぶ広大なものであった。藩祖家政をはじめ藩主では初代至鎮(よししげ)、2代忠英(ただてる)、3代光隆(みつたか)、4代綱通(つなみち)、5代綱矩(つなのり)、6代宗員(むねかず)、9代至央(よしひさ)の各遺体が埋葬されている。7代宗英(むねてる)は京都清浄華院に葬られ、興源寺には遺髪のみ埋葬されている。
万年山墓所造営以降の8代宗鎮(むねしげ)、10代重善(しげよし)、11代治昭(はるあき)、12代斉昌(なりまさ)、13代斉裕(なりひろ)の墓は遺髪のみを納めた墓である。(注:6代宗員は火葬のため納骨墓である)

墓石はいずれも大型の花崗岩製で、五重塔、無縫塔、櫛形塔、の3形式があり、寺名の元となった2代藩主忠英(興源院殿)の無縫塔は高さが4.2mで国内有数の規模である。なお蜂須賀家の墓所区域から少し離れて家祖正勝(福聚寺)と正室松の拝み墓がある。

徳島城跡 正勝の銅像(現在は家政像に建て替えられている)

2万年山墓所

儒学(儒教)に傾倒した10代藩主重義喜が、明和3年(1766)に造成した儒葬による一族の埋葬墓地である。眉山北側の標高約270mの稜線から山裾部に至る南北約780m、東の清林谷から西の巴蛇谷に至る東西320mの、面積約200,000㎡の広大な墓域を有し、中腹の標高約170m地点には巨大な露出岩盤の表面を平らに削って碑文を刻んだ、高さ3m、幅約8mの明和3年11月在銘の「阿淡二州太守族葬墓域」の碑がある。この碑文によれば、万年山の範囲は東西百七十九歩、南北四百四十九歩を測り、「四至に封有り」とされており、清林谷と巴蛇谷沿いには、墓域境界を画するために結晶片岩を積んだ幅約1m、高さ約1mの石塁が部分的に残り、また山麓部には「御墓山」と刻まれた花崗岩製の境界石が14基確認されている。

正勝 万年山の墓

万年山墓所に葬られた最初の藩主は安永9年(1780)に没した8代宗鎮で、柩埋葬部の上部を封して正門には門を配した。その後に埋葬された10代藩主重喜以降は正室や側室を藩主と同じ区画(台地)内に追葬している。また子供たちの墓は10代藩主重喜墓では一部同じ台地内に追葬されているが、概ね子供や孫たちのの墓だけで一区画を構成している。一区画の墓所・墓石群は藩主一家の家族構成そのものと家族の歴史を示している。万年山墓所の被葬者は、明和3年に同墓所が造成されて以来、藩政時代に儒式によって埋葬された遺体は54を数え、神仏折衷方式で葬られた最後の藩主14代茂韶(もちあき)夫妻やその子息正韶夫妻等、また昭和46年に大阪市天王寺区の天端寺から移転改装された家祖正勝などを合わせると、万年山墓所の史跡指定範囲内には62体が埋葬・納骨されている。